動物以上人間未満

卑屈負け組から見る外界の世界

遊び偏差値教育

日本の教育には受験という物が嫌にもついてくる、国民である以上避けられない定めなのである。受験以外にも学校の中間考査期末考査などで校内順位が否応に明らかになる。赤点、つまり偏差値が低い人間には人権はないのである。日本という国では勉強の側面で偏差値が非常に重要な要因であることは明らかであるがここで勉強以外の面での偏差値を考えてみよう。私は人間の判断基準の要因として学力の偏差値も重要かもしれないが遊び偏差値というものも非常に重要であると考える。具体例を挙げると学内での円滑なコミュニケーション、人望はもちろんカラオケ、ボウリング、ショッピングなど一見ただの遊びであるものに対しても偏差値という概念はつきものであると私は考える。勉強の側面で偏差値が高くてもコミュニケーション能力欠如、カラオケ・運動オンチ・などでは大学受験までは通じるが対人関係能力を重視する就職活動で詰むのである。むしろ社会的地位上位層は小中高時代から周りとコミュニケーションを当たり前のものとして捉えて何気ない遊びでも周りを盛り上げる、この人と一緒にいて楽しいと思わせるつまり遊び偏差値の能力こそ真の意味で社会に通用する優秀な人材育成法なのではないかと考える。私は大学生になってから周りと比較し自分は遊び偏差値が非常に低いということに強い自己嫌悪を覚えている。ましては私の周りは遊び偏差値45以下は誰1人いない環境なので私の無能が如実に現れてしまっているのである。高校時代は遊び偏差値55ほどあったが一体どうして今のような現状になってしまったのか。遊び偏差値としての私はいわゆるFランである。遊び低偏差値は勉強での低偏差値より人権がないのである。