結婚式に呼ばれる回数と社会的地位は比例する
結婚式に呼ばれる頻度が、人生においての答え合わせだと思っている。
一見新郎新婦を祝う催しだが、実際の裏テーマは自分自身が属してるコミュニティ内での自分の価値を図る作業である。
当事者達は勿論、〇〇おめでとう🎈㊗️🎉と祝っている自分も幸福な空間に存在し、充実していると再確認することが可能である。
他者を祝うことで自身が結婚する時に祝われる確約作りという側面も存在している。
つまり何が言いたいかというと他人の結婚式に頻繁に出席している人間こそ社会というステージで成功しているということ。
私は人の祝い方を知らないからご祝儀は3万円をpaypayで送金します。
無数の社会
電車を乗ってる間、ふと窓を見ると住宅街が永遠に連なってる光景が見える。何も変哲のない風景だが一軒一軒にそれぞれの暮らしがあり、独立した存在が数多に存在する、何百、何千とそれぞれの社会が無数に連なって一つの街が形成される。その光景が恐い、不気味で仕方ない。
高架上を走る電車内から窓を眺めると、マンションの一室で洗濯物を干していたり、家の庭で子供を遊ばせていたりする姿を見る。まるで人間が虫籠の中にいるカブトムシやケージにいるハムスターを見ている感覚に近しいものを感じる。
一瞬全知全能の神にでもなった気分だが自宅に帰ったら自分も籠の中にいる生物となんら変わらない。
疑問
赤ちゃんってsexから産まれるのに当の本人はsexできないからsexから最も遠い存在である。
哲学的な言葉で近くて遠いって意味の物を探してもなかなか出てこないからモヤモヤする。
負け犬
負け犬って言葉があると思うんだが、あの言葉ってなんなんだ。
負け犬の語源は喧嘩に負けて逃げる姿から来ているとある、本来犬は群れで生活し強い相手には逆らわない性質であると言われている、しかし基本的に感情がある生き物、つまり脳が発達している生き物は社会性を身につけているので強者には逆らわないというのは合理的、むしろ正しい発想なのではないかと思う。
強者に逆らわずヘコヘコしている姿を揶揄して負け犬という言葉を使うが、勝てる勝算もないのに馬鹿正直に反論したりするより、遜ってすいません💦と謝罪している方がよっぽどマシだ。
負け犬=マイナスなイメージがあるという事実がどうしても納得がいかない。世間が言う負け犬は自分の意思や感情を殺して波風立てずに擬態してるんだよ、お前ら勝ち馬は数多の負け犬、つまり負け犬の協力があってこそ成り立っているってこと忘れんなよ。
負け犬にこそ美学があると思うのは私だけ?
育み
社会人になってから人と遊んでも心から楽しい、わくわくするって感性が欠如してることに気付いて打ちひしがれてる。
毎日を惰性で生きて、暇つぶしのエンタメを楽しんで寝るだけ、虚無。
中、高、大、社会人とコミュニティの変化が起きるタイミングで人間関係は一度区切られ新たに一から交友関係を作り上げていく、この繰り返しで人生における全体のコミュニティは豊かになっていくと思っている。言わば交友関係の足し算によって人生が豊かになり各個人のオリジナル(ルーツ)が形成される。そのオリジナルが作られていく過程でコミュニケーション能力が維持されていくのである。つまりどこかのタイミングでコミュニティからあぶれると対人関係を拗らせてしまうのである。
自分の周りの友達は職場の同期と旅行やディズニーによく行くと聞く、人間との交流で人生が豊かな物になると考える私は思わず嫉妬してしまった。プライベートで比較的対等な関係(同世代)と関わることで物事を楽しむことができる感性が育まれるのに…
人生詰んだなー
格言
本のページや紙を捲る時自分の唾液を付けている人間にまともな奴はいない。
ニット着ている女性
ニットを着ている女性は自分の胸の大きさを最大限活かしていると思う、あの立体的な膨らみの中はどんなことになっているんだろう?と想像力がエロを刺激させる。特にスレンダー体型なのに胸が大きい、これがスタイルの良さと女性特有の母性両方を表現していると個人的には考える。
エロと言っても品のないエロでは無く、ある種の芸術作品と言っても過言ではない文学的エロなのである。